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東京地方裁判所 昭和48年(特わ)42号 判決 1974年1月17日

主文

被告人は無罪。

理由

一本件の公訴事実の要旨は、被告人は、酒気を帯び、アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態で、昭和四七年九月一九日午前零時四〇分ころ、東京都世田谷区用賀四丁目一一番二号付近道路において、普通乗用自動車(軽四)を運転したものである、というのである。

二被告人が右日時・場所において、右自動車を運転したことは、被告人の当公判廷における供述および第三回公判調書中の証人久保正行の供述部分によつてこれを認めることができる。

三しかし、当時、被告人が酒気を帯びアルコールの影響により、正常な運転ができないおそれがある状態にあつたことも、身体に呼気一リットルにつき0.25ミリグラム以上のアルコールを保有する状態にあつたことも、これを認めることができない。その理由は、つぎのとおりである。

(1)  本件において、酒気帯びに関する証拠としては、(イ)昭和四七年九月六日付安田春男作成の鑑定書(五月一四日付受付印のあるもの。以下本件鑑定書という。)、(ロ)被告人運転車両は、本件当時蛇行して走行したとする、証人久保正行の供述部分と昭和四七年九月二三日付ならびに同年一〇月三日付各実況見分調書、(ハ)逮捕当時の、被告人の酒臭等身体の状況に関する前記久保正行の供述部分と第四回公判調書中の証人佐藤恵一の供述部分、(ニ)本件前における被告人の飲酒量の四つである。

(2)  そこで、まず、本件鑑定書についてであるが、これについて弁護人は、その鑑定資料となつている尿は、被告人が排泄したものでないから、本件の証拠とはなしえないと主張する。

前記証人佐藤恵一の供述部分、第四回公判調書中の証人矢崎武一の供述部分、第五回公判調書中の証人安田春男、同吉田征二の各供述部分ならびに右鑑定書によると、その鑑定資料である尿は、被告人が約一時間ないし一時間三〇分前に、湯飲み茶わんで五、六杯分に相当する水を飲んだのち、尿意を訴え、昭和四七年九月一九日午前二時三〇分ころ、玉川警察署の留置場内において便器に排泄したものの全量であつて、それが約五〇ミリリットルであるというのである。けれども、右のように、本件の公判廷において判明しているだけでも、多量の水を飲んだのちに小用をもよおして排泄した尿の全量が、わずかに五〇ミリリットルにすぎないというのは、特別の事情の認められない本件においては、経験則に照して疑問であり、また、本件鑑定書は、本件の公訴提起後であり、しかも、鑑定時より八か月近くを経過した昭和四八年五一四日玉川警察署において受理され、本件の公判に提出されたものである点よりみても、前記弁護人の主張のような疑問がないではない。

しかし、前者の点については、排泄された尿の全部であるとする前掲各証人の供述部分は誤解であつて、その一部にすぎたいともみられるし、後者の点は、証人佐藤邦彦の当公判廷における供述、鑑定受付簿(抄本)中番号一〇四二の欄の記載、文書件名簿(抄本)中番号四〇八一の欄の記載および一〇月六日付受付印のある鑑定書によれば、本件鑑定書は昭和四七年一〇月六日警視庁科学検査所長から玉川警察署に送付され、同日同署において受理されたが、紛失したため、やむを得ず昭和四八年五月一四日右科学検査所長から同所に保管中の控の再交付をうけ、これを公判に提出されたもので、その後、先に交付をうけ、紛失中の鑑定書(一〇月六日付受付印のあるもの)が発見されるに至つたことが認められるので、この点での疑問も解消したということができる。

そして、右証人矢崎武一、同吉田征二、同安田春男の各供述部分によると、右鑑定の資料とされた尿は、前記のように、被告人が昭和四七年九月一九日午前二時三〇分ごろ、玉川警察署の留置場内において便器に排泄したものと認めることができ、その頃、排泄した事実はないとする被告人の当公判廷における供述は採用しない。

しかし、右証人佐藤恵一、同矢崎武一、同吉田征二の各供述部分を総合すると、被告人は逮捕時において、身体に保有するアルコールの程度を調査するための、呼気を風船に吹き込むこと、その他直立能力、走行能力等の検査を拒否したために、捜査官側においては被告人が排泄した尿から右アルコールの程度を検査しようと考え、前記の日時・場所において被告人が尿意を訴えて便所に連れていくように求めるや、当夜の宿直の看守係であり、捜査の係員から被告人の尿の採取を依頼されていた右証人矢崎武一は、被告人の尿中のアルコール度を検査する意図で便器にさせるのであるのに、右の事実を告知しないで、単に、立会の幹部が来られないから便所に連れていくことができない、と称し、便器を留置場内に差し入れてこれに排尿させ、もつてこれを採取したものであることが認められる。被告人の尿の採取を依頼されていた右矢崎武一としては、なんらかの方法でこれを採取し保存しておく必要があつたのであり、右証人吉田征二の供述部分によると、同人においては採取した尿を保存するために、牛乳びん、密封用のふた、ゴム輪等を準備していたのであるから、立会の幹部がこられないというのは単なる口実であつて、便器という容器内に排尿させた真意は、尿の採取・保存にあつたと認められる。

ところで、被告人は、逮捕当時から酒酔いの事実を否認し前記のように、呼気を風船に吹き込む等の検査を拒否していたのであるから、自己の尿中にあるアルコールの程度を検査する意図であることを知つたならば、尿の排泄を断念するか、あるいは排泄した尿を任意に捜査官に引き渡さなかつたものと推認できるし、このことは、被告人の当公判廷における供述によつても認められるところである。

してみると、本件鑑定資料の尿は、右矢崎武一が、第一に、いわば偽計を用い、被告人を錯誤に陥し入れて採取したものと同様にみることができるし、第二に、真意を告知しないことによつて、被告人の体内またはその占有に属する物を、その意思に反して取得するためには、裁判官の発する令状を必要とする憲法三五条、刑訴法二一三条、二二五条または二一八条等の定める令状主義の原則を潜脱したことになる。

さて、憲法三一条、刑訴法一条は、被告人に刑罰を科するためには、法律の定める適正な手続によることを要求しているが、これは、捜査の過程であつても、右のいわゆる適正手続に違反して収集された証拠は、その違法性が重大な場合等においては、これを事実認定の証拠とはなしえないとの趣旨をも含むものと解すべきである(仙台高判昭和四七年一月二五日刑事裁判月報四巻一号一四頁参照)。

これを、本件の尿についてみると、その収集過程は叙上のとおりであつて、一つには被告人を錯誤に陥し入れるという手段を用いて採取したという点において、個人の尊厳を基調とする被告人の基本的人権を侵害し、さらに刑事訴訟手続における公正と正義の観念に反し、二つには令状主義を潜脱したという点において、憲法の規定に違反する重大な違法を犯して取得したものというべきである。かように、本件の尿は、法律の定める適正な手続に違反して取得されたものであから、本件のような事案においては、これを事実認定の証拠としては使用できないものと解すべきである。そして、右尿中に含有するアルコールの程度の鑑定結果を記載した本件鑑定書は前述の適正手続の趣旨に鑑みると、その鑑定資料とされた尿と同一の取扱いをするのが当然であり、その取調べにつき証拠とすることの同意もない本件においては、結局、右鑑定書についても、事実認定の証拠とはなしえないこととなる。

(3)  つぎは、蛇行して走行したとの点についてであるが、まる、深夜で、しかも、幅員がわずかに3.5ないし5メートルというように狭い道路を、被告人を、他の被疑事実の犯人として追跡の車中から目撃した状況をもとにして、事件後一二日間も経過した後に現場の再見分をなし、その結果、蛇行の幅が0.65ないし1.1メートルであるとする昭和四七年一〇月三日付実況見分調書は、その証明力において疑問を抱かざるを得ない。また、交差点において左折するにあたり、不必要に大まがりをしたという前記久保正行の供述部分もあるが、これは、右実況見分調書および同年九月二三日付実況見分調書にも記載されており、被告人の当公判廷における供述からも推認できるように、一旦右折しようとして、急遽、左折したものとも考えられる事情も認められるのであつて、酒酔いに基因する不自然な運転とは断じ難い。前掲の各証拠によれば、結局多少の蛇行とみられる運転があつたことは認められるが、それは、わずかに三回にすぎないし、しかも、いずれも、単に進路を一旦右または左にとつたのちに元に戻したという程度であつて、連続して左右に曲つて進行したという蛇行ではないのである。また、被告人の当公判廷における供述によると、被告人は当時、暴漢に追跡されているものと錯覚し、その恐怖のもとに、後続する右証人久保正行運転の車両を気にしながら、いち早く、明るい大通りへ出よようとして時速三〇ないし四〇キロメートルの速度で走行していたことが認められるが、そのような事情のもとでは時にはハンドル操作を誤ることも考えられるのであり、さらに、前掲の各実況見分調書によると、被告人は、一時停止の標識の交差点においては一時停止をなして進行していることが認められるのであつて、以上の諸事情を考え合わせると、この蛇行の点も、必ずしも酒気帯びの影響によるものとは認め難い。

(4)  酒臭等の被告人の身体の状況中、まず、酒臭について、前記証人佐藤恵一の供述部分によると、五〇センチメートルくらい離れていても「プンプン酒の臭がした」という。しかし、前記証人久保正行の供述部分によると、被告人車を停止させたとき、車内から酒の臭がただよつてきた、それは強かつたといいつつ、他のパトカーの乗務員にその確認を求めなければならない程度にすぎなかつたことが認められ、被告人のはく息からの酒臭については、なんら述べていない。右証人佐藤恵一の供述部分によると、同人は、被告人が一時停止の標識のある地点で停止して進行したのに、停止しなかつたと聞いたと述べたり、つぎに述べる被告人の頭髪の状況についても右証人久保正行と異なる供述をなしているのであつて、後記認定のような、当時の被告人のその他の言動・態度等とも考え合せると、酒臭の程度に関する同人の前記供述部分には措信できないものがある。結局、この点については、ある程度の酒臭が感ぜられたにすぎないと認められる。

つぎに、頭髪の状況について、右証人佐藤恵一の供述部分によると、前の方へだらつと下つていたというが、右証人久保正行の供述部分によると、七、三に分けていて、通報のあつた人相に似ていたので追跡したというのであつて、両者間にくいちがいが認められる。足元の状況については、足を右へ出したり、ひつこめたりしていた(右証人久保正行の供述部分)あるいは、足元がふらついているような感じであつた(右証人佐藤恵一の供述部分)という程度であつたことが認められる。

さらに、右証人佐藤恵一の供述部分によると、被告人の目が充血していたというが、右証人久保正行の供述部分には、酒酔運転と認めた事情として、この点についてはなんらの供述もない。

なお、被告人の捜査官に対する言動・態度に関しては、右証人佐藤恵一の供述部分によると、とくに粗暴な振る舞はなかつたことが認められる。

(5)  最後に、被告人の飲酒状況については、被告人の当公判廷における供述と第五回公判調書中の証人笹川雅雄の供述部分ならびに証人渡辺誠の当公判廷における供述によると、被告人は、前日の九月一八日午後六時ごろ、ビールを普通のコップで三杯と、同日午後九時ごろから一〇時ごろまでの間に、生ビールを小ジョッキで三分の一くらいを飲んだのち、本件の直前ごろまで、停車中の本件の自動車内で眠つていたことが認められる。検察官は、被告人の飲酒状況に関する公判廷における供述は変転しているから措信できないと主張するが、右一八日午後六時ごろに、ビールをコップで三杯飲んだことは逮捕直後の取調べにおいて既に述べているところであつて、前掲の各証人の供述をも考え合せると、他に右被告人の供述を疑わせる事実のない本件においては、これを措信できないといい切るわけにはいかない。

(6)  以上の次第であつて、本件における酒気帯びに関する証拠として、本件鑑定書を除外した前記三の(3)ないし(5)の各事実が、各箇所で述べた程度において認められるにとどまるが、右認定の被告人の飲酒量と、その後の時間の経過ならびに上記認定の酒臭等の状況を総合しても、はじめに述べたように、本件における訴因である酒酔いの状況はこれを認めるに足りないし、これと同一性があると認められる酒気を帯び、身体に呼気一リットルにつき0.25ミリグラム以上のアルコールを保有する状態にあつた事実もこれを認めるに十分でないのである。

四よつて、結局、本件は、犯罪の証明が十分でないことになるから、刑事訴訟法三三六条後段により、被告人に対しては無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。 (豊吉彬)

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